2000年 7位 藤本敦士 阪神タイガース
でぶぶの考察場 会社情報 |
阪神タイガースドラフト考察>2000年ドラフト>藤本敦士
2000年ドラフト7位 藤本敦士 超てきとう阪神タイガースドラフト考察
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 四球 | 三振 | 盗塁 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
01 | 阪神 | 75 | 202 | 50 | 1 | 17 | 13 | 36 | 2 | 269 | 320 |
02 | 阪神 | 63 | 162 | 29 | 1 | 8 | 8 | 23 | 3 | 209 | 252 |
03 | 阪神 | 127 | 451 | 121 | 0 | 36 | 26 | 42 | 9 | 301 | 343 |
04 | 阪神 | 111 | 419 | 99 | 5 | 33 | 27 | 58 | 5 | 257 | 308 |
05 | 阪神 | 119 | 400 | 89 | 1 | 36 | 33 | 40 | 3 | 249 | 313 |
06 | 阪神 | 138 | 443 | 93 | 3 | 30 | 27 | 56 | 3 | 237 | 285 |
07 | 阪神 | 105 | 164 | 36 | 0 | 13 | 12 | 23 | 0 | 243 | 304 |
08 | 阪神 | 58 | 89 | 19 | 0 | 7 | 6 | 14 | 1 | 250 | 306 |
09 | 阪神 | 47 | 70 | 14 | 0 | 1 | 3 | 4 | 0 | 219 | 254 |
10 | ヤク | 65 | 209 | 43 | 2 | 18 | 11 | 27 | 1 | 230 | 276 |
11 | ヤク | 23 | 48 | 9 | 1 | 6 | 4 | 7 | 0 | 205 | 271 |
12 | ヤク | 66 | 88 | 17 | 0 | 3 | 10 | 12 | 0 | 218 | 307 |
13 | ヤク | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 000 | 000 |
通算 | 1001 | 619 | 14 | 208 | 180 | 344 | 27 | 251 | 303 |
ドラフト的選手評価・・・B
阪神時代には4年間にわたって遊撃・二塁でレギュラーを務めた
超てきとう考察
向上した守備力と向上しなかった打撃力
管理人が最初に見た時の藤本の印象は「守備も打撃も危なっかしい選手」だ。守備の危なっかしいというのは説明する必要はないだろう。打撃に関しては説明しづらいのだが打席での安定感を全く感じない選手だった。柔軟性がある(ように見える)打撃フォームからの柔らかい打撃には天性の打撃センスを感じたが、いつまでも安定感がなかった。赤星などが努力して愚直な自らにあった打撃に成長していっているとすれば、藤本は天性のセンスのみで打撃をしているように見えた。
藤本は長打のないタイプながらバットを長く持って体を全力で回転させるようにして打っていた。藤本に求められていたのは2番タイプの(赤星のような)いやらしい打撃だったと思うのだが最後までそれが身につくことはなかった。簡単にポップフライを打ち上げるし、バントも下手だったので使うとしたら打順は1番か8番しかない。ただ、1番を打たすには打率が低すぎるし、出塁率も低い。消去法で8番打者に定着してしまった。
正直当時の阪神の打撃陣において藤本は明らかに穴で打者としては起用のメリットはほとんどなかったと思う(3割を打った2003年は除く)。それでも4年もの間レギュラーの地位を保てたのはどんでんのお気に入りだったこと(推測)、他にライバルとなる選手がいなかったこと(沖原放出、秀太伸び悩み、今岡のケガ、関本は鈍足だったり三塁にまわされたり)、二塁の守備力が大幅に向上したこと(06年あたりの守備力は中日荒木に匹敵したと思う)などが要因だと思う。
だがやはりと言うべきかあの打撃力ではレベルの高いライバルが現れればレギュラーを追われるのは自明の理である。2007年オリックスから平野が入団する。同タイプの選手で高い身体能力を誇る平野にとって藤本は敵ではなかった。あっと言う間にレギュラーを奪われ、その後は奪い返せる雰囲気はまったくなかった。
その後はFA権を行使しヤクルトに移籍したがレギュラーをとれず2013年に引退した。管理人の個人的な考えでは藤本はプロ1軍で何年もレギュラーをはるだけの実力がある選手ではなかったと思う。ただ最高のタイミングで生涯唯一の3割を打ったり、ポジションの関係で運などもあってここまで試合に出場することができたんだと思う。本人からしたら「やり切った野球人生」だったのではないだろうか。